蝉しぐれ~DVD

2008年07月31日



藤沢周平の『蝉しぐれ』のDVDバージョン。NHKが時代劇シリーズで作ったものですが、非常によくできています。
内野聖陽さんと水野真紀さんという、キャスティングもよくて、脇を固めている人々も絶妙です。
これだけよくできた時代劇ってあまりないんちゃうかな、と思える作品。

今学期は一冊留学生に読ませて、その後これをみました。

とてもよかった。

果たして学生の評判やいかに?



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蝉しぐれ

2008年06月25日



やっぱり蝉しぐれ



今年は満を持して授業で使ってみた。
やっぱり最後は圧巻やと思う。
是非皆さんお読みアレ~。映画よりも遙かによいと思います。

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近江ことばと京ことば~街道をゆく24

2007年12月02日



滋賀弁というのはとても複雑に思います。
「複雑」と言っているのは、北西では北陸(福井)、東北では中部(岐阜)、東では三重、西では京都に接し、
しかも、琵琶湖があって県内が分断されているので、
「滋賀弁」ということばが一つの外延を捉えきらないと思われる、ということです。

ま、それでも大きく言えば滋賀弁は関西弁であり、しかもいわゆる
東関西の方言、京都のことばに近い、と言えると思います。
(「言えると思う」というのは、同じ大津市内でも、1号線沿線の人と、湖西地域(坂本とか堅田)の人々と
話し方(特にアクセント)が違うので、一概に言えないということですが。

そこで司馬先生

p.59
「近江はことばのいい土地で、とくに彦根の町方ことばは、京ことばに近い。むかし、
彦根で、老婦人が立ち話しをしているのを耳にして、音楽のように感じたことがある。」

pp.60-61
「私の知っている女性で、彦根のうまれの人が京の祇園のお茶屋に嫁入りしてきたが、
嫁入り早々のころから、当時すでに崩れかけていた京ことばのなかにあって、たれよりも
美しい伝統的なことばをごく自然につかっていた。」
「大坂の船場ことばは京ことばを真似ぞこなって出来たものだと私は思っているが、
実際には近江の丁寧言葉が元祖であったかもしれない。船場の中核的な商家の多くは
近江系だったし、江戸・明治期は近江から丁稚を採用した。大正時代ぐらいになると、
近江八幡の八幡商業などの出身者を採用し、昭和一ケタぐらいになれば、
彦根高商を採ったりした。そういうひとたちが、大坂の丁寧語をつくり、維持したといえる。」

(『近江散歩 奈良散歩 街道をゆく24』朝日文庫)

不勉強でうろ覚えですが、実際に大阪弁については近江弁がベースであるというような
方言学的研究があったようななかったような・・・。
今度専門家に聞いておきますface07

大阪の方へ行くと、滋賀のことばは明らかに異なった関西弁に響くらしい。
関西の外へ出ると、さらに、関西弁ではないように聞こえるらしい。
テレビで大阪弁が蔓延しているからだと思われますが。

地元へ帰って「~にゃ」とか、「~しぃさぁ」とか言うの聞いてると、
あー、帰ってきた帰ってきた、とにまにましたりするのです。






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石田三成~街道をゆく24

2007年11月10日



まあ、なんちゅっても近江人の中でも歴史に名を残した人として、
忘れてはならない人でしょう。
天下分け目の合戦の、西軍総大将。

あの、肖像ってみたことあります?なんか、めちゃくちゃ悪狸風の。
勝てば官軍、負ければ賊軍、まさしく負けた人の絵って感じですよね。

それはいいとして、司馬遼太郎は、この人物と近江人であった家臣たちについて
こんなことを書いています。

関ヶ原で西軍が敗走し、家康は三成の一族の主たるものの切腹を命じます。
この確約をもらおうと、三成方は津田仙庵親子を外に出しますが、途中で
家康の意思を知らない者によって殺されてしまいます。

そこで、やっぱり家康は嘘つきや~っとなった城内で、戦って死のうということになるのですが、
三成方の一族はそのことを、士卒に強要せず、逃げたいものは逃げるがよし、
としたそうです。以下引用。

***************:
 この間、城をぬけだしたのは、大坂の秀頼のもとから援兵としてきていた長谷川守知という者が
水ノ手口からのがれて、寄せ手の小早川勢に奔ったぐらいで、城中男女二千数百が
ことごとく城にこもり、二日間激闘し、闘死もしくは自害した。この一事でも、三成がいかに士心を
得ていたかがわかる。ついでながら、三成の家中はほとんどが近江人であった。
(p.53)





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清水義範氏の講演会へ行く

2007年11月10日



作家の清水義範氏の講演会に行って参りました。

就実大学の表現文化学会での招待講演でした。

人間はどういうものをおもしろいと思うのか、
そしてそれは文学の中ではどのように表現されるのか、というようなお話しでした。
なかなかおもしろかった。

数冊しか読んだことはないけれど、お話しの中でふれられていた本を探して読んでみようと思います。

友人のO氏が司会が堂に入っていた。
これまた友人のF氏の奥様が、清水氏にサインをもらってご満悦そうだったのも
かわいかった(^^)。

おかげで仕事が滞りましたがface07



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最近読んだ本

2007年10月26日

何読んだっけな?最近。

金原ひとみ『蛇にピアス』
伊集院静『乳房』
村上龍『空港にて』
石田衣良『4 Teen』
山田詠美『ぼくは勉強ができない』
司馬遼太郎『侍はこわい』
養老孟司『からだを読む』

くらいかな。仕事以外では。

それぞれおもしろい、とは思いましたが、全体的に僕にはパンチがやや薄め。
伊集院静のは短編で、「乳房」という小説はかなりいけます。
あと、村上龍のも何編かおもしろかったな。「空港にて」はそれこそおもしろい。
是非是非。

あと、ひっさしぶりに

川端康成『雪国』

を読みましたが、何が、といわれれば分かりませんが、やっぱりちょっと一線を画するな。
読書の秋ということで、みなさまもどうぞ。


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街道をゆく24~その4:井伊家

2007年10月09日

ひこにゃん:彦根城築城400周年記念キャラクター

ですよね。2007-400=1607年。
江戸幕府開始直後の築城ということになります。

彦根には少し前までは佐和山城というお城がありました。
彦根城の天守閣に上れば、佐和山が見えます。
そこは石田三成の居城でした。

西軍の大将。

さて、井伊家といえば井伊直弼でしょうか。
桜田門外の変。歴史で勉強しましたね。

藩祖は井伊直政と言います。
徳川家康に仕えた、幕府の重臣。
井伊家というのは、もともと遠州(静岡県です)の出で、
先祖は今川家に仕えていました。

今川が滅び、直正は家康に見出されます。

さて、ひこにゃんがかぶっている鎧甲、赤いですよね。

「井伊の赤備え」

です。
かなりの強軍として知られました。

さて、赤い鎧の軍団といえば武田軍。

武田が滅びたときに、家康は信長の許しを得て自軍に武田軍を入れます。
そしてそのほとんどを井伊直政に任せます。

てなわけで、井伊家が赤備えを踏襲することになりました。

ひこにゃんが赤ヘルをかぶっている理由は、カープファンだからというわけでも何でもなく、
そういう事情を反映しているのです。







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街道をゆく24~その3伊吹山のもぐさと近江商人

2007年09月27日



先日、首が痛くなって(てか、今も痛いけど)、鍼灸院に行ったときに、
お灸をしてもらい、「これはまだ安い方ですが、高いやつは伊吹山というところでとれるんですよ、
知ってます?伊吹山」と言われた。
「えーもちろん。出身滋賀ですからねぇ」と言うと、
鍼灸院の先生は奇しくも釈迦に説法をしたような顔になり当惑顔でした。

というくらいに、伊吹山のもぐさは今でも有名です。
もぐさに限らず伊吹山は薬草が有名だったそうです。

それと、近江商人気質について、司馬は以下のように綴ります。

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江戸期に、この山中(=伊吹山、筆者注)の宿場で、街道に面してもぐさ屋が十数軒もあり、明治後は一軒きりになってしまったが、江戸期はどの店も繁盛していた。中山道を往来する旅人は、伊吹山の南麓の柏原宿場に入ると、たいていはもぐさを買う。とくに参勤交代のための大名行列がこの宿場にとまったりすると、ひとびとはあらそって江戸や国もとのみやげに袋入りのもぐさを買った。おもしろいことに、どのもぐさ屋も「亀屋」という屋号を名乗っていた。鶴は千年、亀は万年という、その亀のイメージで薬効を象徴させていたのである。おかしさは、おそろいで「亀屋」だったということで、このことは近江商人がたがいに足を引っぱりあわないという気風とかかわりあいがあると見てよい。

(p.37)朝日文庫

***************************

これは今でもそうじゃないかな、と思う。
あまり、足を引っ張られた経験はありませんし、
僕自身の感覚でも、別に他人が出世するのは勝手だし、
それがどのような方法であっても特に気になるものではない。

そういうものって、土地が持っている雰囲気とかの中に連綿と受け継がれて染みこんでいるんでしょうね。






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街道をゆく24~その2松尾芭蕉と菅沼曲翆

2007年09月27日


松尾芭蕉はご存じでしょう。
義仲寺に墓がありますな。

木曽義仲の墓があるところですが、芭蕉が遺言でここに墓を建てたとされているところです。
膳所の西武の裏側。高校の頃からよく通っていたのに行ったことがありませんkao11何回か行こうとしたんだけど、残念ながら定休日(ちゃうちゃう)やったのよ。

ま、えーか。

いずれにしても、松尾芭蕉は近江好きでした。

あんまり松尾芭蕉の俳句も知らないのですが・・・。

以下引用

**********************
芭蕉には、近江でつくった句が多い。
そのなかでも、句としてもっとも大きさを感じさせるのは、『猿蓑』にある一句である。

行春を近江の人と惜しみける

この句でいう近江の人は、むろん複数である。その中に、当然菅沼曲翆もまじっている。
行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観の広やかさや晩春の駘蕩たる気分があらわれ出て来ない。湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈はすべて遠霞にけむって視野をさまたげることがない。芭蕉においては、春と近江の人情とがあう。こまやかで物やわらかく、春の気が凝って人に化ったようでさえある。この句を味わうには「近江」を他の国名に変えてみればわかる。句としてなりたたなくなるのである。
(pp.19-20,朝日文庫)

駘蕩たる・・・大きくのびやかで、のどかな様子。「春風駘蕩」

*********************

この本の中で著者は、近江人の気質を義に固い人々として捉えています。

菅沼曲翆は膳所藩の重臣でしたが、国を滅ぼしかねない悪人を斬って、
自分も切腹します。私闘ということにしなければ藩の取りつぶしになりかねない、
かといって、その賊を生かしておけば、汚職の中で藩は滅ぶであろう。
曲翆はその両方を恐れて、義のために自分を擲ったのです。

そして曲翆は芭蕉門下の俳人でした。

そのような文脈の中で、上の文章を読んでいただけるとよいのではないでしょうか。

いずれにしても、琵琶湖の春は体験した者にしか分からないなんとも言えない雰囲気を持っていますね。
昔とは随分変わってしまってるんでしょうが、それでも春霞の湖東から見る湖西は確かにどこまでも
霞んでいて、「春霞」そのままです。
春は霞むもんだと思っていたら、よそへ行くとそうでもなくてびっくりしたりしますよ。









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司馬遼太郎~街道をゆく24その1蒲生氏と三越

2007年09月25日


久しぶりの本。
読んでいないわけでなく、おもろい本が見あたらんだけ。
川端康成の『雪国』ひっぱりだして読んだりして。
さすがに時代に淘汰されたもんはそれなりにおもしろいっすよ。

てなわけで、「街道をゆく24」は近江散歩、奈良散歩なのだ。

最初は三越の話。

蒲生賢秀、氏郷が現日野の領主だったことは滋賀の人ならよくご存じでしょう。
以下引用。

蒲生氏は鎌倉時代からの地頭だったが、租税徴収だけをする地頭ではなく、歴代よく百姓を介護した。
とくに賢秀・氏郷は商人を保護し、このため氏郷が伊勢松坂に移封されてからも日野商人たちは
あとを慕って松坂に移った。このことが、伊勢における商業をさかんにした。
戦国期の近江においては武士から、商人になる者も多く、たとえば三井家を興した三井越後守高安なども、
日野出身ではないが近江で興り、伊勢に移った。やがて松坂木綿をあつかったり酒造業を営み、
江戸期、江戸に移って呉服商を営んで大をなした。越後守であったために、家号を三越と称したことは
よく知られている。
(pp.12-13)朝日文庫





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